「落下の解剖学」を観て

単純な殺人事件を端緒にした謎解きモノかと思っていたら、人間の多様性と内面の多面性を、法廷という舞台装置を使ってあぶり出した作品でした。

 

事件自体は現場検証等であっさり解決すると思いきや、確たる実証ができず。そこから被告人、被害者、息子などの内面を抉っていく過程が、法廷を通して行われていきます。

 

検察、弁護人共、対証言者に、それは「主観」的だと攻め立てます。各証人は検証したデータ等を使い、予想としてしか成り立たない主観を述べます。述べるしかありません。それは法廷という「客観」と「確証」で「正義」を製造する舞台装置によって否定されてしまいます。

 

それでは「主観」とはなんなのでしょうか。とても曖昧で不確かなものなのでしょうか。その不確かさが徐々に露呈されていきます。

 

精神的疾患や視覚障害というフィルターを通して、歪められたり、言動の一部分を切り取られて、人間性に嫌疑をかけられたり。「主観」が移ろっていきます。

 

そこに人間の多面性が描かれていきます。精神的疾患も視覚障害も単なる人間の一面であり、切り取られた言動も一部分でしかなく、その人間のすべてを表しているわけではありません。

 

しかし、多面的な物事から人は日々、取捨選択して決定していかなければならない。その最たる舞台が法廷であり、「正義」という多様な概念から一つを抽出する装置なのでしょう。

 

だから主人公は判決に、得も言われぬ感情を持ったのではないでしょうか。

 

息子役を演じたミロ・マシャド・グラネールが秀逸です。