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「貝に続く場所にて」を読んで

ここのところ、小説にハマっていまして、直木賞、芥川賞の受賞作品を中心に読んでいます。

如何せん小説は当たり外れというか、私の嗜好に合う合わないがはっきりするので、買って後悔しないように、先ずは図書館で借ります。

なかなか最後まで読了できるものは少なく、読了しても、この拙ブログに書くまでにはなりません。

数冊読んでみて、最近の私の本の好物は、レトリックのようです。

単に写実的な言葉で物語を表現し、進行していくものには食指は動かず、飽きてしまいます。

なので、この「レトリック欲」を満たすために、所有の三島由紀夫を再読し始めました。

三島を読んでから、レトリック欲を持つようになってしまいました。レトリックの魅力は時に詩的な表現と、一瞬という時間も、言葉で引き伸ばす事ができる、小説の醍醐味の一つだと思います。

そんな三島作品を読みながら、次の書籍選びで芥川賞の受賞作品から、Amazonでレビューなどを見ていましたら、

「わからない」「難解だ」「自己陶酔している」など、ネガティブなレビューが散見されたのですが、それが逆に興味をひいて、借りてみたのが本書。

多分小説においての「難解」というのは、私としては「何解」だと思っています。何でもその人次第の解で捉えられる。解とは何ぞや?と自分なりの深読みができる作品ではないかと思ったのです。

 

それが今回は当たりました。

まず、その過剰なまでのレトリック。レトリックが入っていないところは無いのではと思うくらい。

早々に「幽霊」が出てきて、少し引きましたが、レトリックの読みたさで、読み進めることができました。

この過剰なレトリックといい、霊といい、三島の影響を受けているのかと思いきや、夏目漱石を愛読しているとの事。作中にも彼へのオマージュが表れています。その他にも、寺田寅彦や芸術家へのオマージュが読み取れます。

一回目はレトリックに目がいって、全体の印象は朧気で暗く映りました。もう少しはっきりと自分なりの読み方をしたいと思ったので、今度は購入しました。

Kindleで。最近はできるのならば、Kindleの方が紙よりも明るさを気にする必要が無い、メモや注釈が入れられる、どこでも読めるなどの理由でKindleで購入します。

二回目はじっくり読み込んでみました。

私なりに深読みした本書のテーマは

「曖昧さ」です。

存在の曖昧さ、時間の曖昧さ、記憶の曖昧さ、距離の曖昧さ。

なので、作品自体が曖昧なものと捉えられてしまうかもしれませんが、それがテーマで、それを楽しめるかどうかで、この作品の好き嫌いがはっきり分かれるように思います。

霊、神出鬼没の冥王星のブロンズ板、現代の街並みに現れる過去の映像など、私としては以前読んだ、物理学、量子力学の仮説「ゼロ・ポイント・フィールド」を想起します。物理学者の寺田寅彦とも物理繋がりが感じられます。現次元と並行して存在しているゼロ・ポイント・フィールドの出現を想いました。先日こんな記事も見ました。

田坂広志さん × 高橋一生さん 『死は存在しない』を語り合う


それとハイデガーの「存在と時間」も。作中にも「メメント・モリ」が出てきて、先駆的決意性を思わせます。
ハイデガーの道具論も、記憶の可視化のいくつもの象徴、持ち物(アトリビュート)など、かつて意識していた道具としての物質からの問いかけのようです。

絵画もいいモチーフとして使われています。
何層にも塗り重ねられた油彩画などは、記憶の積み重ねの隠喩のようです。遠近法による消失点は、視点のとらえかた次第で、見える景色が、思い出す記憶が移ろうことを表しているみたいです。

一回目は暗く感じた作風も、二回目はファンタジックに、そして、ユーモアも感じました。

多層的な作品の面白さがあります。万人受けではないと思いますが。

結局私は、レトリックですかね。